永い延長戦

2023年:「何でも見てやろう」

逆説的幸福

f:id:matteroyo:20200417185623j:image

 一時は見渡すところ水場ではしゃぐ子供で溢れていた河川敷も 今は人気がまばらだった。みんなもう外に出歩くのにも飽きてしまったんだろうか それともみんなスイッチで通信して 盛り上がっているんだろうか、

ふらふらふらふらと、誰もいないのをいいことに音声入力を使って言葉を書いてみている こんなの初めてだ

柔らかい陽光が差す絶好の昼だというのに、まるで平時のように人影のなく かすかな老人と ランナーが支配する河川敷は、僕にとっても好都合だった。菜の花は未だに花を付けている。もう一か月くらい前から咲きっぱなしな気もするが

さっきカラスがいたから話しかけてみたけど、何にも返事してくれなかった。無視だった

自由が制約されている上に時間だけは有り余っているこの瞬間は 普段手をつけられないことを取り組むのにまたとない機会だとは分かっているが 結局自分は川をふらついているばかり。

でもこれもきっと 今にしかできようのない とても贅沢なことなんだろうな いつ行ってもいい、いつ帰ってきてもいいなんて毎日、これから先そう容易く手に入れられるものでもないだろう。 1,2時間したら帰ってこようと心積もりしながら毎回出かけるんだけど、 普段よりちょっと遠出してみたり 大樹によじ登ってその立派な枝を抱いてみたりして、気づいたらどこかよくわからないところで夕暮れを迎えていたりするんだよな。

こういう行動をとるのが 今、医学として社会として正しいのかは知らない。いや、間違いなく、間違ったことなのだろう。

しかし今 自分は 必要や義務や欲望を果たす自由を失ったことで、逆説的に自由を:今までに味わったことのない自由を謳歌しているみたい。期せずして理想の生活を手に入れてしまったみたい。当てもなく川をさまようしかやるべきことは目前になく、それはひょっとしたら既存の欲求を満たすよりも幸せなことだった。

ドアを開ける。毎日のように僕は、野球グラウンドの錆びついたベンチに仰向けになって、菜の花のそよぎと小鳥のさえずりのあいだに溶けた。