永い延長戦

2023年:「何でも見てやろう」

何か成しているかのような錯覚と、何も成せていないかのような錯覚

生活は停滞しており時間だけが進んでいった。それなりに良い成績が取れるようそれなりの努力を重ねて、真に意欲のある人がゆうゆうと自分の頭上を飛び越えていくのを見ていた。自分はそれに奮い立ちも悔しがりもしなかった。彼我の差を気に留めるような敏感さは、今の自分にとり一番不要なものだと思った。

 

多くの日は彼女に元気づけられ、ある日は彼女に苦しめられもしていた。珍しくもない一喜一憂。彼女は自分が知る中で一番明るい人で、まるで月の裏側に存在しているかのように最も縁遠い存在で、それが故に僕はいつか来る終わりの訪れを今から確信していた。彼女がアメリカ人の友達の話や、大学のクラスやサークルで開いたzoomの話をするたびに、この身は小さく縮こまった。同時に笑顔でそれを称えて、心の底から喜んでいた。

家の中でうずくまっているだけで休業補償が転がり込んでくる。本来働き詰めになるはずだった時間を、何かやっているかのような錯覚と何もできていないかのような錯覚の間で過ごしている。

筋トレを行う。ランニングを行う。読書を行う。ラジオをつけると、射し込む西日の中そのまま眠り込んでしまう。料理は、自分の味に飽きたからあんまり行わない。日記は書く。ブログは書かない。週に1日か2日、思い立ったようにプログラミングを勉強する。

生活は停滞しており、残された時間はこの間にも減っていっている。