永い延長戦

2023年:「何でも見てやろう」

コミュニティをしまい込む、社会人が始まる

最後のアルバイトを終えて、仲良くしていたバイトの人たちと次に会う日程を示さずに「またね」と言って別れた。

卒業する同期には、4月から熊本や香川、アフリカで働く人がいる。もう軽々しくまた明日と言える日は来ない。そう気づいた瞬間、就職が意味するものの一部をはじめて納得できた。

(こう納得したのは、新横浜に停車している東京行き新幹線の車内でのことで、バイトの友人と別れたのはそのホーム上でだった。でもこれは全く関係のないことだ。)

 

学生のうちは、授業がありゼミやサークルに所属し、いくつものアルバイトで働いていた。それぞれに異なる人がいて異なる顔を見せていた。そのいずれでも、またそのうちと手を振って別れてきて、明日からはもうない。不確定な約束。もう二度と会わないかもしれない人々。畳まれてゆくコミュニティ。

これからは週の5日のほとんどを会社に注いで、人間関係はきっとその中で完結するようになる。交流を促すのは入ってしまったゼミや入れてしまったシフトのような強制力のある予定だと思うが、もはやそれを与えてくれるのは会社だけだ。いわば一本足打法を迫られる中で、自分は初動を間違えず居場所を築けるだろうか。空振りするプレッシャーは今まで以上に大きい。そんな大学4年の3月31日。