永い延長戦

2023年:「何でも見てやろう」

時間を軽んじて暮らす自分が誇らしい

日曜日。二枚も三枚も着込んだ上でずっと毛布にくるまっているから、今が暑いか寒いか・雨か晴れかさえも分からない。布団に横になって、ツイッターを開いて、今日が終わるのを待っている。今この瞬間に、部活の練習に励んでいる同級生もいるだろう、習い事をがんばる人も、予備校で勉強する人もいるだろう、そんな中で自分が、こうして時間というものを軽んじて暮らしていることが誇らしい。

 

自分は何を書くのだろうか。時間というものに好きなだけ蹴りや殴りを加えた末、いつもこの問いにたどり着く。何か思いを注げるものがたとえ一つでも残っているならそれは有り難いことだ。大した熱情や関心というものは書くことに対してさえもはや残っていないけれど、まだ消滅してないという事実が尊いものです。インターネットや本や音楽にも自分は執着するだろうけど、それらが自分の心に牙を剥く日など永遠に訪れない。生きるにあたっては、自分に不快感さえもたらすような活動にひとつは取り組んでいたほうが良い、ような気がする。他人の生産物を受け取る立場ではだめで、ときに自らも生産したほうがよい、理想として。とくにこの考えを裏付けるような理屈もないけど、この程度のことを書き散らしていける場所がブログだろうと思う、そうなのだと自分に覚え込ませなきゃいけない。意識的に、パズルを組むように丁寧に文章を形づくろうとすればしんどい。軽やかな沈滞のなかで、身構えることなく自分を言葉にしていきたい。そのとき口を開くのは意識でなく無意識だ。無意識に潜り込んで言葉をくみ出す。自分の無意識にはきっと無尽蔵の鉱床が広がっている。