永い延長戦

2023年:「何でも見てやろう」

不自由は自由

どんな自分も自分から程遠い。wwwと!!!に満ちた言葉をLINEに送りながら、河川敷に立って水の流れを聞いている。辛くも悲しくもない、けど楽しくも嬉しくもない。どんな言葉も、今の自分の一片のみしか表すことができないだろう、感情を言葉にするとき常に生まれるちょっとした意味のズレとは異なる、根本的な齟齬を感じる。ポジティブやネガティブで括れない今の自分。

 

期末テストが終わって春休みが始まる。まだ予定は病院と塾の春期講習だけ。部活は休みだし、何のイベントに参加する気もない。これから予定が増えるとしても、せいぜい2、3個といったものだろう。こうもゆとりがあると、いつもは億劫な通院の予定が途端に楽しみになってくる。

何も決められてない、ということが怖い。自由は好きだし自由に憧れるし自由を与えられたら嬉しい、だけど自分は自由の御し方を知らない。不自由な方が性に合っている。カラオケに行くときは歌う曲も順番もすべて決定してから行くし、積読の本を読む順番は十数冊先まで固まっている。自分の身体は不自由に最適化されている、と言ってさえ差し支えないのかもしれない。カラオケに入ってからふと歌いたくなった曲もやすやすとは歌えない、大好きな作家の新刊も積読の順番に横入りできない、こんな縛りがあるからこそ、むしろ自分は落ち着いていられる。稀に、目的地だけ決めて当てもなく散歩やサイクリングに出ることがあるけれど、このときだって、行き方は自由と規定されているから自分は安心して寄り道できているんだろう。

では、春休みは自由に過ごしてよいと自分に許可を出せば解決するのか。これでは駄目だろう。まだ不自由度が低すぎる。散歩だって、終点という縛りを無くしてどこへでも行ける状態にしてしまっては却って苦しくなる。

では、もっと自分をきつく縛ればいいのか。明日は古書店巡り、次の日は美術館、次の日は5時に起床し5時半までツイッター6時までアニメを見て朝食を食べて9時ぐらいまで本を読む……    こうやって予定を詰め込みさえすればいいわけでもない。厳しい規律に沿って行動させるには、命令者である自分の権威が低すぎる。命令元が自分である以上、この細やかなスケジュールを破ったところで何の不利益も生まれないのだから、当然自分は低きに流れて不自由から逃れてしまう。単に不自由でさえあれば良い訳ではない、不自由の中に自由がないと、不自由の中に自分の積極意思が含まれていないと、不自由の中で、自分自身に自らの自由を錯覚させないといけない。確かな効力があって、けれど微細すぎない計画を立てたい。やりたいこともやるべきことも一緒くたにリストアップして、毎朝寝起きの気分に従って選び取って、自主的に自分を不自由へと組み入れる。自由のまま野放しにして、吐きどおしだった冬休みの二の舞にはしたくない。