己の尺度に従って旅に出た。
禅寺の縁側でぼんやりと石庭を眺めたり、水族館で1つの水槽に延々と張り付いていたりした。
いくつも山を超えた先にある廃墟を見るため片道百キロ車を走らせ、天気の急変で結局空振りに終わったりもした。
初めて入った銭湯で番頭さんに叱られたこともあった。滑りが悪い玄関の引き戸をガラガラと開けると、その先はもう女湯の脱衣所だったのだ。どうやらその銭湯では入口の時点で男女が別れているらしい。そういえば引き戸は2つあった気がする。よく見ると男湯・女湯と書かれていたのかもしれないけど、暗がりだけにわからなかった。
戸をくぐると暖簾もなしに脱衣所の光景が開け、その奥には曇りガラス越しに風呂場が見えた。幸いにして着替えの最中の人はいなかったが、白いタンクトップと半ズボン姿の番頭さんには「男と女間違える人、なかなかいませんよ」と手厳しく注意された。
後から考えれば、初見殺しの構造をしているくせに、とちょっとぐらい不満を覚えても許されそうな状況だけれど、その時自分は不満より先に愉悦を覚えていた。結局廃墟を見られなかったときもそう。未知とぶつかる瞬間、これこそが旅する理由だから。
人生は旅だ、Life is a journey、とはどこかで聞いたような言葉である。
でも、わたしはこの言葉が人生を正しく表しているとは思わない。自ら変化を望まなければ、人生は日ごとに既知のパーツの組み合わせになってゆくのみだからだ。人生は最初から旅なわけじゃなくて、旅にしたいなら自分で旅を始めなければいけない。
日常を飛び出して始めた旅では、失敗したり無駄足踏んだり、迷ったり止まったりすることもある。でも旅には、後悔も失意も焦りも不安も上回るくらいの面白さがあると私は思う。元始、人生は旅であったりはしないけれど、旅するような人生を選ぶことはできる。既知の世界の日が沈み、みんながすっかり寝静まったとき、わたしはベッドからこっそり抜け出して未知の世界と対峙する。そうしなくっちゃ、生きてる理由が分からないし、人生は神ゲーになりやしないと思っている。
*この文章の源