永い延長戦

2023年:「何でも見てやろう」

灰色の時代、青色の時代


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親にあてがわれた服を嫌いだしていたあの頃、わたしはずっと灰色の服ばかり着ていた。親の色さえ付いていなければ見栄えなんてどうでも良くて、ある日はグレーのパーカー、ある日はグレーのリネンシャツという調子で服を選んでいた。そして下にはいつも黒のズボンを履いていた。あの頃わたしは、親を憎んでいて世界に怯えていた。

大学に入って初めてできた友達に、あるとき古着屋に誘われた。セカンドストリートみたいに後ろに資本を感じる店ではなく、店員さんのクローゼットを広げたような概念どおりの古着屋。金ピカでタイトな革のパンツ、執拗にいくつもバラの花を並べた柄シャツ、必要の服ではなくて、不必要の服だけがそこにあった。必要を着るのに理由はいらないけど、不必要を着るには理由がいる。おれはここでは選ばなければならない、我を出さなくてはいけない、という状況ははじめて遭遇するもので新鮮だった。赤、青、黄色、まばゆい原色で埋まる店内で、わたしは生まれてはじめて自ら一着を手にとった。色調さまざまな青色がモザイク状に散りばめられたシルクのシャツ。袖を通してみると、このシャツはまさしくわたしで、わたしのものであるべきだ、と思った。

色気づかない周りの友達にすら服への無頓着を咎められるような高校生だったのに、こうして今では選ぶ理由と喜びを知った。衣服はまとう者の内面を表し、内面を動かしてくれるのだ。雲の切れ間に覗く空を見上げて希望を託していた、あの頃は確かに灰色の時代だった、これからはきっとみずみずしい青色の時代になる。