永い延長戦

2023年:「何でも見てやろう」

年がら年中死にたがっていて、ひどくくだらないことで笑う

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私が壊れ始めている。理由は言葉にすればかんたん。もともと家族関係ですり減っていた心が、恋人との関係の揺らぎで更に傷ついてしまった。それだけ。もう私は家庭でどのように振る舞っても安穏を手に入れることができない気がする。

自分は健康そのものなのに働きに出ず、家事にもほとんど協力せず、疾患を抱える父にすべてを任せきりにしている――金銭面でも家事の面でも父親に頼り切る母親は見るに耐えなくて、朝も夜も家を留守にすることが増えた。夜勤や外泊の回数も増した。しかしこうして家を空けるほどに、私が家事をやる機会が減って父親搾取の構造に加担しまう。私の必死の逃避は、同時に自身を苦しめ父親をも傷つけるものだった。

家庭で育んだ苦しみの逃げ場として、恋人に頼りすぎてしまったのかもしれない。私は恋人に家族のことをそう多くは語らなかったけど、日に日にその存在にもたれかかっていった。会う日も会わない日も、LINEする日もしない日ももたれかかっていた。楽しむことも楽しませることも忘れて、彼女を苦しみのはけ口と見ることしかできなくなっていたのかもしれない、今から思えば。先日彼女に「すこし距離をとろう」と言われて、それをとても正しいことだと思う。

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恋愛する前も恋愛する間も死にたがっている。そのくせマスクはしっかり鼻の上までかける。夜の河川敷で男女が乳繰り合っている、路上で見知らぬ男に話しかけられて何故かLINEを交換する、先日人生で初めて買った切花が薄汚い自分の部屋の中に光を放っている。そういうくだらないことに笑う。そういうくだらないことにしか笑えない。

何もないところに、とても寂しいところに、いたい。それは寂しいことだろうか。