永い延長戦

2023年:「何でも見てやろう」

閉塞へ


f:id:matteroyo:20200330164340j:image


他人の言葉に溺れているのは、自分の言葉が見当たらないのを隠すため。自分を自分で語れないから誰かの言葉に縋った、いつか自分を言い当ててくれるように願った。でもそんな、自分が発したかのような言葉に出会うことはついぞなく、本と音楽に沈んでいる間に、すっかり自分を失くしてしまった。自分の言葉は、ますます遠く、掴み難くなっていて、つまり自分のこともさっぱり分からなくなった。他人の本は他人の本で、他人の音楽は他人の音楽。彼らが支えになってくれるのは本を開いてイヤホンをつけている時だけで、本を閉じ停止を押した途端に私は何もなくなってしまう。そんなことにようやっと気づくまでに、私の意志は感情は輪郭は霞んで見えないぎりぎりのところまで遠ざかっていて、そいつらを何とかたぐり寄せようと今必死になっている。

ちょうど手元にあったエーリッヒ・フロムの「愛するということ」は、”一人でいられるようになることは、愛することができるようになるための一つの必須条件である。”と言っていた。まさにそういうことなのだろうな。異なるシチュエーションに向けて書かれた言葉なのに、妙に頷けてしまった。誰かの言葉にしなだれかかっていてはいけない。自分を満たせる自分の言葉を取り戻せれば、きっと少しは幸せに近づけるんじゃないだろうかな。

自分の前に明るい開けた道があると思えたことはついぞない。きっと進む先は閉塞で、袋小路で、でもそこに飛び込むときだって私は笑っていれればいい。言葉があればそれができる、と思っている。