永い延長戦

2023年:「何でも見てやろう」

嫌いは好きになり得るみたい

きのう読み終わったばかりの本に、「あなたが誰かと積極的に関われないのは、誰かを傷つけたくないからではなく、自分が嫌われるのが怖いからでしょ」と看破された。そのことに異議はない。文句のつけようもないけれど、そうして事実を突き付けられたところで、この現状を改めようという気持ちが生まれてくることもなかった。受け身の連続で出来た今の関係を超えるものを作り出せるほど、自分の欲望は人受けのいいものではない。今までできる限り隠してきた人への執着を露わにしたら、積み上げてきたものにもきっとあっけなく終わりがきてしまう。たとえ不満が尽きないとても、だから、受動を固持して過ごしたい。この頑なさが間違いでないことを祈っている、

 

星野源の「POP VIRUS」、発表されて以来、そこそこ聴いている。いまちょっと精神的に良くない時期で、この状況にPOPなんてミスマッチもいいとこで、その割には聴いている。 初めて星野源の名前を知った日が、すなわち星野源を嫌いになる日だった自分にしてみれば、随分遠いところまできてしまったという感じがする。中学生のとき、本屋に並んでいたエッセイをぱらりと手に取ったのが出会いの最初で、その言葉選びの丁寧さや美しさに、今から思えば自分は不釣り合いな嫉妬を抱いていたんだと思う。そうと思い至らなかった当時の自分は、突然膨らんだ嫌悪感に、顔が好みでないとか声が受け付けないとかこの上ない即席の理由を与えて、それからは危うげな嫌悪を密かに温めつづけた。多数決を取るとき、机に伏せた頭をほんの少し持ち上げて教室のみんなの様子を伺おうとする子どもみたいに、ときどき興味に耐えられなくなって、近況を覗いてみたりしながら、それでも嫌いだと言い張っていた。雑誌の連載を読んだ、オールナイトニッポンを聴いた、YouTubeのPVを見た。こうやって星野源に触れるたび、自分の感情が嫌悪と呼ぶものでないことに気づいていって、文章とか音楽に純粋に惹かれていっているのにも奥底ではわかっていて、それを「まあまあやな」「悪くないな」という負け惜しみのような言葉でごまかしていた。それがつい最近までのこと。新曲を聴いて、もう自分の誤りを認めざるを得ないなと思った。この気持ちは”好き”と呼べるほど確かでも単純でもないけれど、”嫌い”に当てはめられる類では決してない。自分は星野源にけっこう興味がある。愛の反対は無関心、ってこんな感じのことなんだろうな。興味ないものを好きになる芽はないけど、嫌いなものだったら案外コロっと真逆へひっくり返ってしまうみたいだ。