永い延長戦

2023年:「何でも見てやろう」

ソルラル

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あたらしいバイトを始めた。回転寿司のバイト。深夜帯なら2000円に届こうかという時給の高さに惹かれただけで、そのチェーン店には何の思い入れもない。店の社員が本社の人に恫喝まがいの”指導”を受け、これから共に頑張ろうと誓いあった年上の同期が初日で姿を消した様子を見るにつけ、自分も長くはつづけるまいと思っていた、のだけど。

その人は韓国から来た留学生で、バイト先は雑居ビルの中腹にあるのにもかかわらず、仕事が終わるとなぜか決まって上行きのエレベーターを呼ぶのだった。仕事の間も終わってからも、決して多くを語らない人。上に行ってもどの店も空いていないどころか、終電の心配をしないといけないような時間に、一体どこに向かうというのか。上階へ行くその人を見送って何度目かの日、好奇に耐えかねて私はとうとうエレベーターに乗せてもらった。

その人の行き先は屋上だった。正確には、煙突のように屋上から突き出ている塔屋。エレベーターホールと二三の灰皿があるだけの小さな空間。地面を行き交う人のためのネオン看板が、すぐそこで瞬いていて眩しい。ここでその人は、煙草の煙を身体に収めて毎日帰路につくのだという。この街の一等地の屋上から人並みを眺めて吸う煙草は、さぞやおいしいことだろう。隠れ家を紹介しながらその人は、マスク越しにも伝わる笑顔を見せて、私はひとまず己の図々しさが拒まれなかったことに安堵した。

その日から私たちは、シフトが重なるたびに屋上を共にした。その人がケントを2本吸いきるまでの短い間。息つく間もない労働のあと、数分間の会話のなかで、私たちは少しずつ互いを知った。韓国にいるその人の家族のこと、自分が通う大学のこと、今日が韓国のお正月だということ。休憩時間には融けなかったその人の心の障壁が、日に日に融けてゆくのを感じた。歳も知らない、連絡先も知らない、喫煙所だけの関係を、気づけば給料よりも欲している自分がいた。固かった退職の決意も、気づけば薄れ始めてしまっていた。

自分にはいま、手を出したいことが山ほどある。

ひよっ子なりに1年間政治学を学んで、政治学が通用しない場の多さと、政治がモノを言う場の多さを知った。近親者を介護する子どもを表す”ヤングケアラー”という言葉と、彼らを支援する団体の存在を知り、かつての自分と同じ境遇にある人々の力になりたいと思った。今さらだけど、大学生としてサークルのような身分相応の居場所も欲しい。ゼミのことも調べたい、就職のことも考えたい。そして何より、読んで、書いて、ライブに行って、自分の欲望を満たす時間が欲しい。むやみにバイトを続ければ、これら全ての時間を圧迫してしまう。やっぱり、ずるずると働いているわけにはいかない。

その人は、少なくとも専門学校を卒業するまでのあと1年、働きつづけるつもりなのだという。すると自分は、たぶんその人よりも先に辞めてしまうだろう、ひょっとすると、年齢も連絡先も知らないままに。

短くて、儚いからこそいいなんて考え方、自分にはわからない。幸福な時間があと1日でも長く続けばいいと、切に思う。いま幸福でないのなら、人生が今終わるのだって数十年後だって変わりやしない。

少しずつ歩み寄る関係の幸せを掌中に感じながら、それでも自分は、近くこの職場を辞めるだろう。韓国の旧正月はソルラルと呼ぶのだという知識を携えて、いつかこの数ヶ月間と、彼女との間に起こり得た可能性を思うのだろう。