永い延長戦

2023年:「何でも見てやろう」

自分が自分である時間

9月に入って何度ブログを書きにかかったことかしれない。ゲームにも音楽にも興味が薄れて性欲も感じなくて食欲には波があって睡眠も規則正しく取れなくて、自分の内側に残っているのが読むこと・書くことといった自分の根底にある習慣ぐらい。読書し文章を書くことすら、心が求めてやっているようなことではないような気がする。ある瞬間自分は知識を流し入れる受け皿になって、ある瞬間自分は言葉を流す装置になる。1日、1日の連なりが日を追うごとに平坦になっている。世界への興味がまるごと剝がれたわけでもないのだけれど、どんなものに対しても複雑な感情というのが生まれてこない。美しい街並みを見てはきれいだなーと思い、仏教の本を読んでは深いな―と思い、手を付けていない宿題のことを思い出してはいやだなーと思う。それくらい。ほんとうは、一つ一つの感情に語り尽くせないくらいの考えを込めていたいけれど。読むことにも書くことにも意思は介在しておらずただそれを止めてしまったら世界の中で自分が流れなくなってしまうからやる。分かりやすく、書くことや読むことの意味が感じられたらいいのに。

 

そんなわけで最近の自分は日記やらツイッターに書きたくなるような事柄を常に探している。何も見当たらなければ1日の出来事とか感情の流れとかをつらつら書く。だいたい特筆するようなことがある日はない。9月ですけど外ではまだセミがみんみん言ってますね。というようなことを書く。ないなりに自分の行動についても書き残す。文字にしてみると案外大したことやってるんじゃないかと思える1日もあり少し救われる、こともある。それが今日の話なのですが。

今日。7時くらいに起きたけれど8時まではずっと横になっていた。そこからは今日の夕食の仕込みをする。こと料理においては、今日は完璧な1日。骨付き豚肉に焼きを入れて茹でて、茹で汁のほうは冷やしてラードとスープに分ける。肉は、紹興酒しょうゆみりんで煮て角煮を作る。ついでに半熟卵も煮汁に放り込んでおく。それとは別口で昆布だしもとっておく、夜に炊き込みご飯をたく準備。

このあとは外出。夏休みにも一度やったのだけど、行き先も決めずに最寄り駅から電車に飛び乗って自分の身を都心へと放り投げるようなことをする。

 

フリーパスというのは大変自分の気性にあっている。どこで降りるのか、どこへ向かうのか、過去の自分に縛られなくていい。東京メトロが伸びる限り遠くへ、自分はいま行ける、千葉にだって埼玉にだって行ける、という事実は自分にとって爽やかに映る。今日はそんな遠くにまで行かず、汐留にある美術館や皇居を囲む濠のあたりへ行った。お昼は立ち食いうどん。休むはベローチェベローチェというカフェはコーヒー1杯200円という安価さとそれでいてスターバックスのように信徒で溢れかえっていないこと、ジャジーなBGMが大きめの音量でかけられていないことにより提供される快適な環境が最大の魅力である。ここでもずっと本を読んでいた。

夜。家に帰る。煮豚と煮玉子はいい感じに黒く染まっている。ラードはまたの機会に放っておいて、残った豚のスープに菜っ葉や根菜を放り込む。お米を昆布だしに浸水させて、蛸とか調味料とかといっしょにさせてたこ飯を作る。

食事が終わってブログに久しぶりに手を付ける。ここまでうざったく文章を書いた。一度筆が乗り出したら、読み手の目に経って考えたとき一語一語の選択が正しいものであったか考える暇なんて無い。他者の視点を忘れる瞬間。書くことの意味の片鱗がこの一瞬のためにあることは疑いようがない。もっと書きたい、ずっと書いていたい。生きる意味を探さない。言葉を排出しつづける装置になる。