待ってろよ未来

今年の抱負「卵の片手割り」

明快にすることの不快

うちね、テーブルがないんですよ。あるんだけど、整然と並べられた、新聞の山と買いだめしすぎてキッチンから溢れた調味料とで埋め立てられている

自分の部屋もない。マイルーム予定地がいまもなお押し入れなので

それで、宿題やろとか本読もとかいう考えになったらだいたい寝室に行く    というか、何を思い立ったとしても寝室に行く。家族3人川の字の寝室。

いまも行ったんですよ。日記でも書くか?と思って。寝室に行ったら。半開きのドアから覗くと。

父親がいてスマホ握ってて画面に映る肌色と嬌声。

 

しばし逡巡ののち退却を選択

 

それでいま私は玄関にあった新聞の詰まった古紙回収袋の上に座りながら書いてます。我が家はたぶん八割がた、不要物に占拠されてる    フローリングに足がついて、末端冷え性たる自分にはハードモード

なんで父親の欲望のために敗北せにゃならんのか、今考えたらちょっとよくわかんないなぁ?    木目調の床で足の神経がやられて泣きます

 

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国語の授業でさ、この描写すげえな、ストーリー展開うまいな、と感嘆しながら読んでた小説が、解説を加えた先生の一言で一気に陳腐化することがままある

朝日が輝いたり若木が芽吹いたりしてたら、この描写から主人公が前向きに一歩踏み出そうとしてることが読み取れますね! みたいな。

そんなに単純化させる必要あります?といつも思っている    せっかく書いた人がさ、作者なり主人公なりの心情を、情景やらセリフやらに託して間接的に表してるのに。そこに歪曲に描かれているのだから、そのまま歪曲なまま受け止めたい、希望だとか前向きだとかの簡便な言葉にはめ込んでしまうんじゃなくて、読解するのであればもうちょっと作者に対する責任を持ちたい、というか先生に持ってほしい

希望の一語で表しきれるものなら作者だってそうしてるだろ、そうですよね?    作家への幻想を持ちすぎでしょうか、きっとそうではないと思う

 

きのう、又吉直樹の火花を読み終わった

又吉さんの文体は自分が相当好きな部類のそれで、勢いがつくのですらすらすらーと頂けてしまった。けれど登場人物の行動とか考えとか、およそ理解できないところだらけで、こういうものはそのまま放っとくのがいいのだろうとつい近ごろ思うようになりました

言葉の枠に、自分の思考の中に、無理やり押し込めてしまおうとするんじゃなくて、まずはその文学的表現のまま咀嚼する。”火花”とは主人公達が笑いの高みを求めて切磋琢磨した日々のことで云々、とかあれこれ想像することは悪くないけど、この描写にはこういう意味があるなどといったことをこちらで決定するなんてこと間違ってる。

結局読み手は書き手のことを理解できないし、結局読み手に作品を規定する力は持てないから。